国立ハンセン病資料館

  1. 東京ドーム8個分の広大な敷地
  2. 園内通貨
  3. 無癩県運動」の資料
  4. 「健康は身のため、國の爲」の強靭な肉体の男子像のポスター
  5. 火葬の写真
  6. 実物大の監禁室
  7. この資料館にたどり着くまでいくつかの伏線があった
  8. 国立ハンセン病資料館を通じて感じたこと
全生園と住宅地の境界。開園当時の100年以上前は、住宅もなくどこまでも広がる武蔵野の雑木林だった
全生園と住宅地の境界。開園当時の100年以上前は、住宅もなくどこまでも広がる武蔵野の雑木林だった

1,東京ドーム8個分の広大な敷地

東京都東村山市にある多摩全生園。その南端に国立ハンセン病資料館はひっそりと佇んでいた。

西武新宿線久米川駅よりバスで20分。最寄りのバス停留所「ハンセン病資料館」の二つ手前の停留所「全生園前」で敢えて下車し、全生園の外周部を歩いてみる。敷地は鬱蒼と緑に覆われているが、その外は住宅が密集している。1909年開園当時一帯の人里離れた武蔵の森を想像する。

ハンセン病資料館は、無料。受付で簡単なアンケート(何処に住んでいるか、年齢何十代か、資料館を知った媒体、熱はないか等)を記入しパンフレットをもらい入館する。撮影は残念ながら出来ない。

「展示室1 歴史展示」「展示室2 癩療養所」「展示室3 生き抜いた証」の三部構成となっている。

1000年以上の昔からハンセン病は「仏罰」「家筋、血筋の病」「清浄(の対極としての)穢れ」として扱われ、患者は社会の片隅に置かれ放浪、流浪するしかなかった。四国の遍路を回るものも多かった。

近代に入ると、近代国家(明治政府)による隔離政策は始まる。「らい予防に関する件」の通達で多摩全生園が開園する。大正期に「らい予防法」(つい最近まで存在した法律)に依り、「絶対隔離」「終生隔離」が国策になった。

以下印象に残った展示物をいくつか紹介したい。

国立療養所多磨全生園正門。所沢街道に面してい
国立療養所多磨全生園正門。所沢街道に面してい

2,園内通貨

名称は統一されていなかったようで園内通用券、金券とも呼ばれていた。要は、療養施設の中でしか使えない通貨で硬貨や紙幣があった。世界各地の療養施設でも各施設ごとの通貨が存在した。その目的は、逃亡防止の為だった。

3,「無癩県運動」の資料

全国各地でハンセン病患者を無くす運動が県単位で行われたいた。特に西日本で顕著だった。

鳥取県の各自治体、集落ごとの患者数が地図上に赤丸印で記されている。

多くは密告(県によっては報奨金もあった)により患者は警察や行政に通報され、半ば強制的に「患者自宅検診」を経て療養所に送られていった。

4,「健康は身のため、國の爲」の強靭な肉体の男子像のポスター

戦争拡大とともに民族浄化とも受け取れる、兵隊になる為の理想的国民像の啓発。

その対極としてのハンセン病患者であり隔離を促進したのだろうか。

5,火葬の写真

患者が亡くなってもその遺体は園外に出すことさえ禁じられ、園内にある火葬場で荼毘に付された。患者自身が、」亡くなった患者を「作業」として火葬していたと言うキャプションがあった。ナチスドイツの強制収容所を彷彿とさせる既視感があった。

資料館脇に入所者の納骨堂がある。今はコロナで立ち入り禁止だった
資料館脇に入所者の納骨堂がある。今はコロナで立ち入り禁止だった

6,実物大の監禁室

療養所内は「懲戒権束権」と言う所長の裁量のみで患者に「刑罰」が与えられた。窓のない真っ暗な板の間である。

日本国憲法で基本的人権が保障された戦後も存在した。群馬の療養所には特に厳しい「重監房」があり、23人が亡くなった。「草津送り」を皆恐れたという記述。

療養所内は本来なら職員がやるべき作業も「相愛互助」という美名のもとに「患者作業」としての労働が課されていた。患者は、無理な労働により病気が悪化した。悪化による治療で回復し更なる労働という悪循環があった。結婚するなら男子は断種させられ、妊娠する女性は中絶が待っていた。終生寮内で過ごし、亡くなってお骨になっても親族は差別を恐れ引き取りがなく、所内の納骨堂に納められた。この国立ハンセン病資料館の脇に納骨堂があったが、今はコロナ対策ということで手を合わせることは叶わなかった。

想像以上に充実した展示と小学生も分かるような平易な文章説明。ハンセン病患者の苦難の歴史と教訓を後世に生かして欲しいという熱量を存分に感じることが出来た。広島の原爆資料館や東北各地にある震災遺構の資料館にも通ずるものがあった。皆に知って欲しいという熱意の塊がこの資料館だった。

住居地区。現在も100人以上の入所者が生活している
住居地区。現在も100人以上の入所者が生活している

7,この資料館にたどり着くまでいくつかの伏線があった

所沢街道に面した多摩全生園前は車で通る機会が時々あった。鬱蒼とした広大な敷地と対照的に、所沢街道は片側一車線で夕方になると右折渋滞で遅々として進まない。「一体この全生園という施設は何なのか?」という漠然とした疑問が前々からあった。後日西武線に乗り「国立ハンセン病資料館」の吊り広告を目にする機会があった。

それから暫く経った頃、YoutTubeのおすすめにWHOハンセン病制圧大使の笹川陽平氏のインドでの活動を紹介したドキュメンタリー番組があり、それを見たことが大きかった。

かつてインドを旅行しある寺院で(笹川氏の動画で紹介されているような)ハンセン病の回復者たちが物乞いをしているのを目の当たりにした。寺院を参拝し門を出た瞬間に物乞いがずらっと並んで居た。一人の物乞いに喜捨(バクシーシ)すれば、次から次へと現れる悲しげな表情の乞いたちに困惑した。

夕方、寺院の片隅の野原に数時間前まで悲しげな顔をした物乞いたちが集まっていた。皆屈託無い笑顔でタバコを吸う者、チャイを飲む者、その日の終わりを存分に楽しんでいるように見えた。「さっきまでの悲しげな顔は『営業の顔』だったのか」と面食らった記憶…

資料館までの全生園の外周部の公道は歩道が狭い。敷地内にも道があり、地元の方はそこを使っているようだ
資料館までの全生園の外周部の公道は歩道が狭い。敷地内にも道があり、地元の方はそこを使っているようだ

8,国立ハンセン病資料館を通じて感じたこと

目に見えない感染症への恐怖とそれに由来する偏見と差別という根っこの部分は、古今東西変わらないということだった。過去を振り返り「昔はそんな悲劇、不幸もあった」と早とちりしてしまいがちだが、医療、行政、福祉、人権の発達した今でさえ、我々は危うい綱渡りをしているように思った。

この数年のコロナ禍で露わになった民度とリテラシーは、過去を上目線で見ることは出来ないのではないか。

自粛警察、他者への不寛容、感染者に対する村八分、自殺…

つい数日前、ある地方でコロナで学級閉鎖になった小学校で感染した児童の机を教室から廊下へ出したと言うニュースがあった。ハンセン病への無知から来る偏見と差別とどう違うのだろう。

加えて、療養所内で完結する患者作業による「相愛互助」と、菅前首相が唱えた「自助公助」は同じではないのか?

国立ハンセン病資料館は、私に多くの問いを投げかけてくれた。

残念ながらコロナ感染対策で全生園内をくまなく歩くことは出来なかった。

次回訪ねるときは、園内をゆっくり見て歩きたい。

国立ハンセン病資料館前。バスの停留所があ
国立ハンセン病資料館前。バスの停留所があ

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