<後編>国葬体験記-九段の土地性とエナジーの調和
1,市ヶ谷見附の外堀を渡り徒歩で入城する
防衛省より市ヶ谷見附の外堀を渡り九段まで歩くことにした。都営線市ヶ谷駅から九段下駅まで一駅だが、九段駅がごった返し、地上出口に上がるまで時間を要すると予想した。
市ヶ谷駅より靖国通りをひたすら歩けば、九段坂上のT字路より急に人が多くなりだす。30分前に四ツ谷駅手前に「最後尾」と書かれたプラカードを掲げてる人がいた。最初は何なのかとわからないでいたが、その行列の人は皆、花束を持っていて漸く理解する。献花の行列は九段から半蔵門を介し四ツ谷まで続いていたのだ。
その行列のゴール地点が九段坂公園だ。葬儀の献花だけあり整然と静寂さが漂っている。九段坂公園の献花台は三つほどあり、どの献花代にも安倍元首相の遺影が飾られてる。靖国通りの両脇には警察の白いワゴン車が整然と縦列駐車されていた。献花台の反対側(靖国神社)からも車と車の隙間から見えるようになっていた。そこは通行人の撮影スポットと化していた。
2,いつか見た既視感
靖国神社の青銅の巨大な鳥居が見える九段坂下に差し掛かかったあたりから、丘の上の静寂さとはまるで違う喧騒があった。信号を渡り●●大学前では何やら宗教団体が国葬反対の自前の新聞を配っていた。さらに目白通りと靖国通りが交わる九段下交差点に進めば手前には右翼団体が警官と一触即発である。それを取り囲むように野次馬が撮影していた。交差点を渡った神保町方面では左翼団体が「国葬反対」とシュプレヒコールを挙げ、神奈川県警が厳重に取り囲んでいた。そしてその周りには私を含めた第三者が立ち止まりあんぐりと眺めている。
この九段下での喧騒を国葬の賛否を問う象徴する物珍しい光景として捉えることもできる。その一方で例年8月15日の終戦記念日の喧騒とまるで同じであるので個人的にはいつもの既視感のある光景にしか見えない。現職の首相や閣僚が靖国神社を参拝したかつての8月15日と、右翼左翼のデモの配置も含め何ら変わらないように思われた。唯一8月15日と違った点は、軍歌を爆音で流す右翼の街宣車がなかったことだ。葬儀という性格上右翼側の配慮があったのであろう。これを機に戦没者や英霊を弔う8月15日も大音量の街宣車で押しかけないのも右翼の配慮なのかなとも思う。
3,地形と警察が織りなすエナジーの調和、放出口としての九段下
それにしてもだ。
九段という絶妙な地形とデモというエナジーの調和を感じざるを得なかった。
国葬に賛成にしろ反対にしろ右翼や左翼、デモというものは、国葬会場である武道館や靖国神社の「神聖な」丘に上がることが出来ない。厳重な警備と共に右翼は靖国通り、左翼は目白通りという彼岸を渡ることが出来ない。
それでいて当局自体もそこまで鬼ではない。丘の下にいる代わりに、右翼には靖国神社側の場所が充てがわれ、左翼には皇居側が充てがわれている。皇居側にいる左翼の方が「ずるい」かもしれないが、目白通りから先、九段会館側の彼岸には渡れない。
堀に守られた(北の丸)の国葬会場となった武道館。故安倍元首相は、丘の上の「神聖なる」場所を配された一方で、慣例により天皇陛下は参列しなかった。しかしながら、その数日前には遥か遠方のイギリスでの国葬に参列している。天皇陛下はすぐ近くのもう一つの堀を隔てた皇居に住まわれている。
ならば、九段界隈での一強は靖国神社と言えば、そうでもない。A級戦犯が合祀されて以来、天皇陛下は一度も靖国に参拝していない。靖国本殿の右手には(ついこの前まで中核派の最後の牙城であった)法政大学の高層ビルが聳え立つ。それだけにとどまらず、神社敷地の北隣には朝鮮総連本部があった。今も警備が物々しい。
靖国、旧総連本部、法政大学の謎の富士見町トライアングル…
今回の国葬とその騒動になった九段の地は様々なエナジーが放出されながらもうまく収斂されていく地形のように思われる。
仮に今回の国葬会場が埋立地である有明の東京ビックサイト、平地の続く両国の国技館だったらどうだったのかと想像する。きっとおそらく混沌の極みに陥っていたのかもしれない。
4,賛否のグラデーションとサイレントマジョリティー
九段に身を置いて感じたことは、国葬の賛否というと黒か白の二択のように思われがちだが、実は白に近い黒や、黒に近い白といったように大半がグレーなのではないかということだった。確かに献花の行列は半蔵門駅を遥かに超えて四ツ谷の駅まで伸びていたし、反対派のデモも熱量が籠っていた。しかしながらあの場のデモの過激さや献花の行列だけ見て賛成、反対どちらが多いのかというのは非常にナンセンスのように思う。
私を含め平日にわざわざ九段にまで行き、意思表明や興味に基づき見物するような人は、日本国民の中の一部でしかない。この日出会った宮崎、大阪、長野から来た人までいた。この国葬が大阪であったら私は行っていただろうか?私はたまたま自宅から九段に近いから行っただけなのかもしれない。同じ九段にいても彼の地に身を置くエナジーの量は、やって来た場所からも分かるようにそれぞれ一概に推し量ることが出来ない。
Z世代の友人は「国葬に賛成?反対?」と私にぶっきらぼうに聞いて来た。
私は反対であることや、その理由(閣議決定のみの判断基準の曖昧な決定プロセス、安倍元首相そのものを評価できない)を述べた。「じゃ、あなたは?」と彼に問えば「特に何もない」とのこと。
きっとおそらく彼のような「どちらでもいい」という無味無臭の大きな塊が、この国のサイレントマジョリティーであり、実相なのではないのか?
反原発、フリーチベット、反安保法制、LGBT、反ワクチン、靖国参拝…
今まで多くのデモの現場に身を置いたが、今回の国葬もまた一つ味わい深い現場であった。縁あって中国にいたことがある私にとって、こうやって(予定調和にしろ)意思表明する場が許される国にいることを強く実感した。同時に、意見の異なる相手に対する寛容性も許容していきたい。